父が亡くなってからそれなりに日が経ったが、まだ慣れていないように思う。私が生まれたときからいた人がいなくなったのだから、まだ馴染んでいないのは仕方ないことかと思う。いくら存在が薄かったとはいえ、やはり不在を実感する。親子に生まれた割には関わりが薄く、お互いに関心があまりなかったのだろうなと思う。実生活上の変化は全く無いので、喪失感を感じる自信がなかったが、人並み以下であっても喪失感は感じるのだ。
誰かが我慢しているときに、自分も我慢しなくてはならないと私は感じる。だから父が死んだ今、私はもう我慢しなくていいのだと思っている。父が我慢していたのかは知らないが、私にはそう見えたし、私も我慢しなくてはならないと思っていた。そんな状況がとても嫌だったが、自力で自由になることができなかった。父が死に、私は自由になった。人間であるなら、自力で自由になるべきだと思うのだが、私にはそれができなかった。だから父が死んで喜ぶような人間にしかなれなかったのだと思う。
私が悲しんでいるのは父の死ではなく、自力で自由になることができなかった自分が悲しいのだと思う。父の死を悲しめるほどの関わりが父との間にあったわけではない。お互いのことを知らないまま、ただ無為に長い時間を過ごしただけだった。相手がいなくなり、もう話すことができなくなった今、話すこともなく理解もない対人関係に悩むことはなくなった。仕事は辞めれば苦痛の元となる関係は終わるが、家族の場合は誰かの死によってしか終わらない。少なくとも私には終わらせられなかった。どこでどう間違ったのかも、もうどうでもいいことだ。終わってくれたのだから。
死者には権利が無く、生者の好きなようにされるしかない。これまでずっと子という弱い立場に甘んじてきたが、死者はなんの主張も行動もできない。死者に対して絶対的に強い生者という立場を手に入れた。親子という関係が、生者と死者という関係になることによって逆転した。対人関係上で強い立場を手に入れるということはとても気分が楽なことだ。私は父が死んでも何も感じないのではないかと思っていたが、そうではなかった。自分から奪われていた力、強い立場というものを得て、ようやく生き返ったような気分になったのだ。
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