- 東南アジアやニューギニアの起源神話に共通している、死にまつわる説話では、石とバナナのどちらかを選ぶよう、神に人間の始祖が言われる。不死=石ではなく、死=バナナを選んだため、人間は死ぬようになったという。
- 日本神話では邇邇芸命(ニニギノミコト)が、繁栄=木花咲耶姫(コノハナサクヤビメ)と長命=石長姫(イワナガヒメ)の姉妹を贈られたのに、姉のイワナガヒメだけを父の大山積神(オオヤマツミ)に返してしまい、人は短命となった。食べられない石が、醜いイワナガヒメである。短命か長命の選択ではなく、繁栄と長命をもらったのに、自ら長命を返してしまっている。
- 旧約聖書では、善悪の知識=知恵の樹と永遠の生命=生命の樹、となっている。エデンの園に生える樹のうち唯一食べてはいけないとされている知恵の樹の実を食べて失楽園、生命の樹の実を食べることがなくなり、人は死ぬようになった。
- ギリシャ神話にも類似の話があり、プロメテウスが関わっている。ゼウスに対してプロメテウスは、牛を屠殺してふたつに分け、一方は骨に脂身を巻きつけて美味しそうに見せ、もう一方は肉と内臓を胃袋に入れたのち皮に隠した。そしてどちらかを神の取り分として選ぶように求めた。残りは人間にと。騙されたのか知っていてかゼウスは腐ることのない骨=不死を選び、この時から人間は肉のように腐る=死ぬ運命となった。人間のために善かれと思って愚かな選択を設定してしまったのがプロメテウスなのだ。
これほど死ぬ理由を必要としていたのは、人間が死ぬことに関して、なんで死ななくてはならないのかと思っていた人が多かったからではないかと思う。不死か長命である筈だったのに、短命になってしまったのだと思いたかったのだろう。平均寿命が短かった原始状態では、三十前半くらいで死亡したと試算されているのを読んだが、それは確かに納得できない短さだと思う。本当は不死だ長命だと思って、せめてもの慰めにしたかったとしても無理はない。
死ぬことについてどのように考えているのか、長命が普通の集団ではどんな死にまつわる神話を作るのだろうか。本当は幸せになれた、いい思いができた筈だ、とかいうものではないだろうか?
私の人生はこのようなものじゃなかった筈、本当はもっと何かあった筈、というのはそういえばよく聞こえてくる。その苦しみからの行動も見かける。現代人が神話を作るとは思わないけれど、何かのお話が必要なんだと思う。その社会のメンバーに共通して受け容れられるような、長い人生を耐えていけるような物語が。それが神話のような普遍性のある、多くの人に共有されうるお話であればあるほど慰めは大きくなるのではないのだろうか。自分の経験した幸せや、その思い出だけでは生きるのに不十分な人を、慰め、励まし、再び人生を生きさせることを可能にする物語。
きっとそれは、想像を絶して美しいものであろうと私は思うのだ。
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