2014年8月28日木曜日

休憩

休みたいとブログに書いた後、睡眠時間が伸びた。目覚めると酷く憂うつで、どうしたものかと思いつつも、食事を用意し、片付けと掃除し、風呂はサボったが不調のピークは過ぎたような気がする。毎朝鏡の前で、西尾和美著、今日一日のアファメーション当日分を読むのだが、あまりの嫌さにそのあと泣くという思い返すとオカシイことをしていた。この本が出版されたとき、大型書店で手にとって、周りに大勢人がいるのに、怒りのあまり破きたい衝動に駆られてしまい、あわてて平積みに戻し逃げ帰った。当社比ではだいぶ進歩したのだ。努力したことを認めようと思う。だから休憩してもいい。

休憩することは悪いことでもなければ怠けていることでもない。

考え方や感じ方、行動を改めようとするとき、決まって母が私にしたことが思い出される。何かをやり遂げて、満足して休んでいるとそれを見つけて、怠けている!とか、ちょっと出来るからっていい気になってる!と私の話は一切聞かずに罵倒してきた。ずっとそうされてきて、休憩ができなくなっていたのだと思う。逃れることのできない罵倒から逃れたかった。逃れることなどできないのに、無駄な努力をしていた。休憩していると罵倒されるから、休憩ができない人間になってしまっていた。休むと罪悪感や、その分償わなくてはならないという不安や恐怖が増加する。むしろ休まない方が楽だったが、何処かで休まなくてはならないのだ。自分の部屋を自分が休憩できる、回復できる場所にすることが私にとってはとても難しい。気がつくと体が硬くなって、緊張している。部屋に一人で居るときでさえ。

私に原因があって罵倒されていたのではない。母が誰かを罵倒したかったから私にその役割があてがわれたのだ。私はダメな人間でもゴミクズでもなかったのだ。

本当のことや現実は、子供の私には受け入れがたかったろうと思う。今の私でも耐える限界で、消耗する。親にゴミクズ扱いされていても、他人に受け入れられ、社会で人と生きていくことは諦めず努力すれば可能だ、大人になることはできるのだ、と幼かった私に言ってあげたい。自信が持てず、不安でどうしようもない私には安心できる人も場所もなかった。安心できる人や場所を見つけても、母からその人や場所の悪口を聞かされるのが嫌で自分から諦めた。弱い人間だと思う。そしてさらに自信を失う悪循環からどうやって抜け出したらいいのか解らなかった。ただただ逃げることしか考えられなかった。

許すことが必要だと繰り返し聞いたり読んだりするが、私は母親を許せない。どうして許せるのかも解らないし、解らなくても何ら痛痒を感じない。母が生きている限り、許したらそれを言質に要求してくる。母の奴隷になることを要求してくる。許すとはそういう意味なのか?違う。そのような許しモドキを母に与えることはできない。私にとってそれは許しではない。同じ言葉を違う意味で使っているのだ。どういう意味で言葉が使われているか知ろうともせず、他人が、みんなが親を許せと言っているんだから親の都合のいい意味で許すよう強要する親が私の親だ。

親を許す努力より、休憩する方がずっと私のためになる。親を許そうと努力する暇があったら休憩しようと思う。下手な考えは休むのと似ていない。休むことの方が比べ物にならないくらい建設的なことだと思う。

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