母は自分が作ったものを全部食べないと、わめき散らした。嫌がらせのように、多くよそい、無理やり食べさせるのが常だった。どのくらいか聞かれて、量や数を答えても、それ以上を出し、なんで食べない!と食事中に喚いた。謝らせるためだったのだろう。相応しくないことをさせたことに対する処罰だったのだろう。イヤイヤながら作ったことがわかる食事は食べるのが苦痛だった。あの食事は毒入りだったと思う。愚痴を言う母に対し、父と私が、では自分たちがやるから、と食事の準備をすると、いつも以上にわめき散らし、二度とさせなかった。父の味噌汁が美味しかったことが不満だったのだろう。くだらない仕事をさせられている、と母が被害者ぶり、家族を加害者にするための食事は続いた。
メシマズ嫁のことをネットをするようになってから知ったが、よく似てると思う。母の味噌汁はとても不味かった。だしの煮干や鰹節はそのままで、味噌カスも多く、ドロドロで嫌な味がした。トーストにバターをバターナイフを使わず直接塗り、バターの塊にはパンくずが付いたままできちんと包まれず酸化していた。一人暮らしをして、バターナイフを使い、しっかり包むようにして初めてバターが美味しいことを知った。手抜きとされる顆粒だしやインスタントの味噌汁はサラサラした液体だった。誰かが私に作ってくれた味噌汁はことの他美味しかった。私の当時の好物は、牛乳とヨーグルトと林檎。これらは自分で開封または皮を剥いて一人で食べることができたから。特に林檎は、冬にダンボールのままで置かれ、不衛生な冷蔵庫に入らないので、一番好きだった。牛乳は冷蔵庫で匂いがついてしまうので、開けたら1リットル飲んでいた。今ではその三つはそれほど食べることもなくなった。
外面がいいので、母は料理がうまいと思われていたらしい。人により出す料理が違っているとは知らなかったのだろう。家族外の人、兄、父、私の順で食事に差がつけられていた。弁当は同級生という他人の見るものだから、まともであったのかと今にして思う。それでも凄い思い出がある。白いご飯に白い幼虫が大量に混じっていた。小さな黒い頭と白い虫体が白米のなかに埋れていた。小さな足も写真のように思い出せる。遠目にはわからなかったのか、どうしたの?と同級生に聞かれた。何も言えなかった。虫のたくさんいる米を研ぎ、炊き上がったそれを杓文字でよそえる神経が理解できない。どうやったらそんな気持ち悪いことができるのだろう。嫌がらせのためならそこまでできるものだろうか?幼虫のことを言ったときに、ヘラヘラ笑う母をみて、ああ、わかっていてやったのだと思った。幼虫炊込み御飯を食わせるほど私が気に入らなかったのだろう。
お弁当は、一人暮らしをしてからも、作ることがどうしても嫌だった。でもなぜかこの夏から、時々作れるようになり、美味しいと感じるようになったのが嬉しい。三十年も手作り弁当が嫌いで、コンビニ弁当や、スーパーのお弁当が好きだったのだ。何がどうしてこうなったのかよくわからない。けれど、食事を作るときには自分に言い聞かせようと思う、
母から毒を食べさせられることはもうない。食事を作るときに、自分に毒を盛るような気持ちで食事を作るようなことはもうしない。作ってやる価値がない人間だと自分で自分を貶めるようなことをしてはいけない。母が私にしたことを、自分で自分に繰り返すようなことは、もうやめるのだ、と。
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