年末年始はあまり好きではない。機能不全家族では、一緒にいる時間が長くなるとそれだけ攻撃されることが増えるからだ。一人で過ごすので正月らしさは全くない。掃除はできる限りするが、普段以上ということはない。飾り付けもなし。ないない尽くし。まるで今は年末年始ではないかのように過ごす。餅は正月には食べない。怒鳴りつけられながら食べていたので正月には食べられない。
それでもスケジュール帳を新しくして、目標など立てることはここ何年か続けている。両親の家ではなかった習慣なので、思い出すことがなく、苦痛なく実行できるからだ。今年は1日1ページの物から見開き1週間のものに変えるか迷ってしまい、通販で大晦日に届くという状況になってしまった。年明けに届くと思っていたので年内に届いて嬉しい。
今年の初めに立てた目標は
①ガラクタを手放すこと、つまり物を片付けること、これはできた。
②自分を傷つけた人を自分を含めて許すこと、これはできなかった。
大切なのは物ではなく自分だということで物を捨てたし、できないという自分の考えを尊重し、許すことは諦めた。
新年の目標は新しい人間関係を作ること。生育家庭で学んだ不健全な関係ではなく、健全な人間関係を作りたいと思っている。健全なコミュニケーションの仕方、感情の処理の仕方、人間関係の持ち方を学び直そうと思う。もちろん誰にも教わらずにできるようにはならないので、AC向けのワークブックを使うことにする。これまで10年以上この本にかけてしまったが、今年で最後まで通したい。できないところでつかえてしまっていたが、できないところはそのまま飛ばして進め、できない部分をはっきりさせようと思う。
過去を知って、癒しに向き合って、新しい自分に出会う、という順番で進むワークブックなのだが、ようやく新しい自分を作っていいのだと思うようになった。これまでの私は両親のための私であり過ぎたが、もう彼らはいなくなるし、十分に彼らのための努力をしたと思う。まだ足りない!と思われているが、私はもう十分だと思っている。
私は彼ら仕様の私のことを好きになれない。一人で生きていくのに、好きでもない自分とは生きていけない。自分好みの人間に変わって、心地よく暮らしたいのだ。私の両親は、自分の気持ちの伝え方も、人間関係の持ち方も、自分を守ることも大切にすることも教えず、間違ったことを教えた。
私は自分自身に、健全な思考、行動、対人関係を持つことを許そうと思う。私の両親とは異なる、私に関心を持ち大切にする親、に私自身がなろうと思う。なっていいのだと思う。父も母もそれで損をすることはない。もう死を待つだけなのだから。
母は余命宣告を受けても変わらないままでした。自分の人生の責任を転嫁したまま、死から逃げることはできないのに、逃げたまま一生を終わるつもりのようです。変わらない母は放っておいて、自分のインナーマザーをなんとかしようと思います。
2014年12月31日水曜日
KIZUー傷ー,ギリアン・フリン
年末に読んだ本。ハヤカワ・ミステリ文庫の推理小説。ではあるが、推理小説として読んだわけではない。推理小説として読みたい方、以下ネタバレを含みます。
裕福な母と、自分の皮膚に言葉を彫る長女、亡くなった妹、13歳の異父妹、被害者を含む女性たちの見せかけている姿とより本質に近い姿が描かれる。
少女連続殺人事件をきっかけに、新聞記者となった長女が帰郷し、生まれ育ったアメリカ中西部の小さな街を取材対象とするところから物語は始まる。現在の連続殺人の取材をしていく過程で、過去の妹の死は代理ミュンヒハウゼン症候群の母による殺人である事を知る。生家に滞在する主人公は、今も自分と異父妹が母に薬物を与えられていることに気付く。娘に毒物を与える母に殺されることを選ぶのか、それとも母を諦めるのか?が推理そのものよりも私にとっては面白かった。
長女のカミルは自傷行為を13歳で始めている。証明として、考えや言葉を皮膚に刻んで捉えるため。自分の記憶に信頼がおけない場合、傷痕に記憶の肩代わりをしてもらうことは理解できるのだが、カミルに刻まれた言葉は現在起こっていることにも反応する。皮膚感覚が常に過覚醒しているのは苦しかろうと思うのだが、それなしではもっと苦しいのだろう。そのままでは取り扱えない苦しみを引き受けなくてはならない場合は何らかの緩衝材を入れなくてはならないが、緩衝材ですらかなりの苦しみをもたらすのだ。
カミルとその母は相互理解が全くない。世間から見たらカミルの母は正しいように見え、カミルが自傷行為をする異常な人間だが、より異常なのはカミルの母の方だ。カミルから見たその母は、私から見た母に似ている。自分の母親は異常だと思ってしまった娘がどのように感じるかが自分の身にも覚えがあることとして書かれている。13歳の異父妹は、
現代のアメリカが舞台であるため、都会から来ていた捜査官にカミルの母は早い段階で容疑者として疑われていて、カミルは助かり、薬物検査で母親の逮捕のための証拠となるのだが、社会の側が変化していると考えていいのだろうか?閉塞感の強い町の住人のなかにもカミルの母の異常性に気付いている人がいて、カミルは「真実に気付くと孤立無援」といった最悪の事態にはならない。いいのかなぁ?と思ってしまうくらい希望が持てるのだが、読書中はどちらかというと不快なのだ。読後感が不快と思う方もかなりいると思うが、毒母持ちの娘の多くはこの小説が書かれたことに救いとか希望を持つのではないかと思う。
母は絶対だと言う考えがこの小説のなかでは当然のように崩れてしまっているのは嬉しいことだ。そしてそんな母に育てられて、娘はどこまでも歪むということが当然のように描かれている。正しさは誰にもない、誰にも正しさが負わされないことがこの内臓がむき出しの様な感のある小説に、不思議な清涼感を与えているのではないかと思う。きっと読む人が誰かによってこの小説は推理小説であったりなかったりするのだと思う。誰かのレビューを読んでみたいので、密林で探してみようと思っている。
裕福な母と、自分の皮膚に言葉を彫る長女、亡くなった妹、13歳の異父妹、被害者を含む女性たちの見せかけている姿とより本質に近い姿が描かれる。
少女連続殺人事件をきっかけに、新聞記者となった長女が帰郷し、生まれ育ったアメリカ中西部の小さな街を取材対象とするところから物語は始まる。現在の連続殺人の取材をしていく過程で、過去の妹の死は代理ミュンヒハウゼン症候群の母による殺人である事を知る。生家に滞在する主人公は、今も自分と異父妹が母に薬物を与えられていることに気付く。娘に毒物を与える母に殺されることを選ぶのか、それとも母を諦めるのか?が推理そのものよりも私にとっては面白かった。
長女のカミルは自傷行為を13歳で始めている。証明として、考えや言葉を皮膚に刻んで捉えるため。自分の記憶に信頼がおけない場合、傷痕に記憶の肩代わりをしてもらうことは理解できるのだが、カミルに刻まれた言葉は現在起こっていることにも反応する。皮膚感覚が常に過覚醒しているのは苦しかろうと思うのだが、それなしではもっと苦しいのだろう。そのままでは取り扱えない苦しみを引き受けなくてはならない場合は何らかの緩衝材を入れなくてはならないが、緩衝材ですらかなりの苦しみをもたらすのだ。
カミルとその母は相互理解が全くない。世間から見たらカミルの母は正しいように見え、カミルが自傷行為をする異常な人間だが、より異常なのはカミルの母の方だ。カミルから見たその母は、私から見た母に似ている。自分の母親は異常だと思ってしまった娘がどのように感じるかが自分の身にも覚えがあることとして書かれている。13歳の異父妹は、
異常なことをしたがる相手にそれをさせてあげれば、相手の頭をもっとおかしくすることになるとカミルに言うのだが、これは母に強力に支配されている娘の言葉だ。そこから逃げることもできない間はその状態に耐えるしかない。いつか逃げることを支えに生きるしかないのだが、カミルの妹はその前に死んだ。カミルは異父妹を連れて逃げることができるのか?母に愛されるためなら自分の命を差し出すのか?
悪いことがこれから起こるとわかっているのに何もできない
現代のアメリカが舞台であるため、都会から来ていた捜査官にカミルの母は早い段階で容疑者として疑われていて、カミルは助かり、薬物検査で母親の逮捕のための証拠となるのだが、社会の側が変化していると考えていいのだろうか?閉塞感の強い町の住人のなかにもカミルの母の異常性に気付いている人がいて、カミルは「真実に気付くと孤立無援」といった最悪の事態にはならない。いいのかなぁ?と思ってしまうくらい希望が持てるのだが、読書中はどちらかというと不快なのだ。読後感が不快と思う方もかなりいると思うが、毒母持ちの娘の多くはこの小説が書かれたことに救いとか希望を持つのではないかと思う。
母は絶対だと言う考えがこの小説のなかでは当然のように崩れてしまっているのは嬉しいことだ。そしてそんな母に育てられて、娘はどこまでも歪むということが当然のように描かれている。正しさは誰にもない、誰にも正しさが負わされないことがこの内臓がむき出しの様な感のある小説に、不思議な清涼感を与えているのではないかと思う。きっと読む人が誰かによってこの小説は推理小説であったりなかったりするのだと思う。誰かのレビューを読んでみたいので、密林で探してみようと思っている。
2014年12月25日木曜日
父について
私には父もいる。祖父の息子として。今月始めに転倒骨折し、認知症が進み、リハビリ不可のため特養入所となった。繋がりが薄いためか、認識してもらえないとしても大差ない。私には父はいないも同然なのだ。もちろん経済的に家庭を維持したのは父なのだが、精神面での父はいなかった。純然たるATMとでも言えばいいのか。揶揄としてでなく、機能がもともとないので要求することも出来なかった。夫をATMと言う妻たちは、それ以外の機能を果たせるのに果たしていないこと、ATMではないにもかかわらずATMになっていることが許せないのだと思う。ATM機能だけしかない人には何も言うことは出来ない。ギャンブル依存したり、誰かを虐待したり、何らかの人間の行動があったら内面を推し量ることもできるのだが、私には父は魂がここにない人間のように思えていた。あまりにも辛すぎるので肉体から魂が離れてしまってそのまま戻ってこなかったような。わたしが幼い頃はそれでもまだ近くにいたように感じたのだが、祖父から守ってくれることも母から守ってくれることもなかった父は、父親とは思えなかった。今でも生物学的には父だったが社会学的には父になれなかった人だと思っている。そしてそれが腹立たしいと思えない、気の毒な人だとしか思えない私は、娘ではないのだ。父である人間もいなければ娘である人間もいないのだ。役割として不在であった。私は誰かの娘であることを諦める以外になかったし、諦めてよかったのだと思っている。父を求めても得られないままさすらう人になりたくなかった。何を訴えても返事の帰ってこない父は「ただのしかばねのようだ」った。
父親の象徴とされるサンタクロース、そのプレゼントが届く日にこんな投稿をしてしまった。父からもらえなかったものを恋人からもらおうとして得られず、やたら高額化していったような感のあるクリスマスという名のイベントなのだが、心の慰めにはならない。近くの教会へ寄り道でもしようかと思う。とても静かだから。無宗教の人間にとって慰めってどう得たらいいのかわからないが、私には慰めが必要なんだと思う。
父親の象徴とされるサンタクロース、そのプレゼントが届く日にこんな投稿をしてしまった。父からもらえなかったものを恋人からもらおうとして得られず、やたら高額化していったような感のあるクリスマスという名のイベントなのだが、心の慰めにはならない。近くの教会へ寄り道でもしようかと思う。とても静かだから。無宗教の人間にとって慰めってどう得たらいいのかわからないが、私には慰めが必要なんだと思う。
2014年12月17日水曜日
最近見た夢
私の夢はとても暗い。恐怖に駆られて走り回るのがデフォだ。眠ることが休養とか安らぎになるのか疑問だ。私にとっては眠ることは恐怖なのだ。少しずつ改善はしているのだが、悪夢を誰かに代わって欲しいと思う。それか、スティーブン・キングのように誰かに自分の悪夢を見せたい。キングの小説を読み出した頃、私の物ではない悪夢を見た。伝染性悪夢とでも言うのか。代わってあげることは出来ないけれど、誰かの見る夢を自分も見るのは腹立たしくも不思議な経験だ。私にそんな力はないが、一人で悪夢を見ているのは辛い。実生活も夢の中もどこにも救いも慰めもないのだ。
私の見る夢はRPGのようだ。笙野頼子のレストレスドリームという小説とほとんど同じ。悪夢の中で私は繰り返し死ぬ。死ぬ選択を避けながら夢を見る度にゲームを進めて行くのだ。苦痛や恐怖を味わうことがゲーム終了まで繰り返されるとしたら、睡眠障害になってしまうのは致し方のないことではないだろうか?幾つかは終了させたのだが、自分がまだ未終了の夢を見続けていることは分かっていた。終了してようやく目覚めている時へ持ち帰れる。どんな夢を見ていたのかを目覚めている時にも思い出せるようになる。
これで悪夢が終わってくれたら、と一つクリアするたびに思う。現実か夢かどちらかで休めるようになりたい。何処かで休まないともうこれ以上耐えられない。これから眠るけれど、耐えられない状態がまだ続くのかと思うと怖くて眠りたくない。誰かに助けて欲しいが、こればっかりは無理だ。私の悪夢は現実を押しつぶしているようで、私の人生が侵食されているように思えるのだが、それに対して私は何も出来ないのだ。十代の頃からずっと眠るのが嫌だと思ってしまうような悪夢を見ている。いつ迄この状態が続くのだろうか。死ぬ迄だろうか。死んだら悪夢を見なくて済む、そして現実も失う。二つとも手放せるのだ。少し安心。眠っていることからも、起きていることからも逃げたい。苦しい。
私の見る夢はRPGのようだ。笙野頼子のレストレスドリームという小説とほとんど同じ。悪夢の中で私は繰り返し死ぬ。死ぬ選択を避けながら夢を見る度にゲームを進めて行くのだ。苦痛や恐怖を味わうことがゲーム終了まで繰り返されるとしたら、睡眠障害になってしまうのは致し方のないことではないだろうか?幾つかは終了させたのだが、自分がまだ未終了の夢を見続けていることは分かっていた。終了してようやく目覚めている時へ持ち帰れる。どんな夢を見ていたのかを目覚めている時にも思い出せるようになる。
私は引っ越して来たばかりの部屋で片付けをしている。前の住人が窓に貼っていた紙が何枚か残っていて、絵が書いてある。人の顔なのだが、円に目らしき線と髪が書かれているだけの、かろうじて顔だということだけがわかる絵。なんだろうと思いながらほかの何枚かと一緒にはがし、何の気なしに裏返すと、墨と朱赤で呪いの言葉が書いてあった。剥がした者を呪ってやると文字が並んでいて、それを読んでいる間に私の顔の周りで静電気の放電のように、ビシッ!バシッ!と音がして顔を叩かれるような痛みが何もない空間から私に向けられ、あぁ、呪われてしまった…どうしたらいいんだろう…と恐怖してしまう。いつもなら、呪いをなんとか解こうと奔走するのだが、なぜかこの時は違った。片付けを続けたのだ。誰か知らないけど呪われちまった、どうしよう、と思いながら半泣きで荷ほどきをし、食器を棚にしまったりしていたのだ。窓から剥がした呪いの紙の上に梱包していた紙を重ねて置いていき、それらをまとめてゴミ箱に捨て、呪いの紙も一緒に捨てたことに気づいて慌てたのだが、今さら拾っても何も変わらないな…とそのまま可燃ゴミにまとめてしまった。そうしているうちに、ご近所の方が茶菓子を持ってやって来たので、茶を淹れてお喋りをした。呪われてるのになぁ…どうしようかなぁ…と思いながら一緒に腰掛けて茶をすすり、相手の話に適当な相槌を打って過ごした。紙をはがした窓は何もなくなったので、外がよく見え、日が差し込んで部屋は明るかった。はがした方がスッキリしてイイなと思った。呪いを解くために何もせず、茶を飲んで過ごした。この夢を持ち帰れたということは、終了したということなのだが、なんで終了なのかわからなかった。この夢のように誰だかわからない私を迫害する者は両親のどちらかなのだが、私を呪った紙に書かれた顔はおそらく母だ。 母を可燃ゴミに出して、何事もなかったかのようにご近所さんと茶を飲んでしまった。内心穏やかではなかったけれど、それがおそらく正解だったのだろう。呪いたい人には呪わせておくしかないし、呪いも私が恐怖して解こうと奔走しなければ、私への影響力はゼロだ。母が私をどれほど呪おうと私の人生を左右させなければ良いのだ。母が死ねば、もう直接に私に呪いの言葉を吐きかけることも、いびることも出来ない。紙に書かれた呪いは私の記憶に書かれた呪い。私さえ望めば、可燃ゴミに出せるのだろう。夢の中で出してしまったように。
これで悪夢が終わってくれたら、と一つクリアするたびに思う。現実か夢かどちらかで休めるようになりたい。何処かで休まないともうこれ以上耐えられない。これから眠るけれど、耐えられない状態がまだ続くのかと思うと怖くて眠りたくない。誰かに助けて欲しいが、こればっかりは無理だ。私の悪夢は現実を押しつぶしているようで、私の人生が侵食されているように思えるのだが、それに対して私は何も出来ないのだ。十代の頃からずっと眠るのが嫌だと思ってしまうような悪夢を見ている。いつ迄この状態が続くのだろうか。死ぬ迄だろうか。死んだら悪夢を見なくて済む、そして現実も失う。二つとも手放せるのだ。少し安心。眠っていることからも、起きていることからも逃げたい。苦しい。
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