2014年10月28日火曜日

辺境住みと蜃気楼

落ち着いて本やテキストを読む時期の後、アウトプットしたい気分になったようだ。世間を騒がせる事件は、本が出版されるくらいの時間が経ってから関心を持つ。黒子のバスケ脅迫事件からはまだそれほど時間が経っていないが、本人の著書が出版されるなど、進み方が恐ろしく早く、もうだいぶ時間の経った事件のように思われるので少し書いてみたい。

最近の事件は事件を起こした側が文章を書いている。事件が起こって、被害者なり加害者なりが第三者によって書き立てられて、否応なしに事件について知ることになるのだが、渡邊受刑者本人の文章がネットで読めてしまう。当事者が生きていればこそだと思う。渡邊受刑者が読んで人生が改めて始まったと言う、消えたい/高橋和巳 を私も読んでみた。高橋和巳氏は被虐待者を治療する精神科医であり、非被虐待者。渡邊受刑者と私は被虐待者である。各用語の対応は必ずしも一対一対応ではないが、おそらく対応しているのではないかと思われるものを当てはめた。

 高橋和巳氏は、世界を三つ設定している。
  1. 普通の世界:社会的存在、普通の人が生きている
  2. 辺縁の世界:生命的存在、異邦人が生きている
  3. 宇宙:絶対的存在、自分の死を自覚したとき意識する
普通の世界では人は感情と規範を共有し、心理的カプセルの中で安心して暮らし、社会的存在であることを疑わない。社会的存在になれなかった被虐待者を「異邦人」と名付けている。異邦人は辺縁の世界で生きてきており、そこでは社会的存在は曖昧で、異邦人たちは確信を得られず、いつも自分の存在に戸惑い、不安定に生きている。いかに生きるべきかを問う前に、生きているのかどうかを疑ってしまう。社会的存在がすべてだと普通の人々は信じて疑わないが、その背景には生命的存在があり、それはこの世に生まれて来た、そしてただ生きているというだけの存在である。生まれてきたから存在するという絶対的存在である。同心円の図式で説明すると、中心に普通の世界、その周りに辺縁の世界、さらに外側に、あらゆる活動の「地」として絶対的存在はある。普段は気づくことなく、宇宙的なものと融合していると思われる。例外は、自分の死を自覚した時である。

以上が大変ざっくりした氏の著書の大前提のようなものと言えるかと思う。ジャック・ラカンの象徴界、想像界、現実界のことだろうかと読んでいて思ってしまった。さらに渡邊受刑者がどう名付けたかと、私自身がどう名付けたかを書こうと思う。宇宙や、現実界は言語で表現不可、人間の認識範囲を超えているので、この二名には表現する語はない。

 渡邊受刑者は、社会的存在となれなかった自分は「生ける屍」にしかなれず、茫漠たる怨念を持った「埒外の民」になってしまったと書いている。埒外の民とは上位概念らしいが、成人期以前の人間に適用するとしている。大人になってから、人や社会、地域とのつながりを持てれば「キズナマン」持てなければ「浮遊霊」。繋がりの全てを黒子のバスケ作者により切られてしまったと感じた渡邊受刑者は、浮遊霊からこの世に仇をなす「生霊」となった。辺縁の世界に住む異邦人である自分を分類している。変化や差異に敏感な人なのだろう…とかなり大雑把な私は思う。
自分が一連の事件を起こした動機は、「自分を存在させていた3つの設定の特に『マンガ家を目指して挫折した負け組』という設定を再び自分で信じ込めるようにするため」
この文章を読んだ私の感想は、そっか、なるほどね、だった。自分しか信じていない、妄想に近い設定に対してそこまでするのか?というのが普通の感想だが、そこまでする人はいるのだ。生霊はいるではないか、かなりの頻度で。有名人や組織ではなく、立場が劣るとされているものに、弱いものに粘着しにいくから糾弾されないだけで。高橋和巳氏の社会的存在=渡邊受刑者のキズナマンになろうとしてほぼ死に物狂いの努力をしたのであろうと拝察するが、それが無になり、生霊になってしまった。生ける屍、埒外の民、無敵の人、浮遊霊、生霊は高橋和巳氏の言う異邦人かと思われる。

 さて私だが、「辺境住み」と「蜃気楼」だ。埒外の民は辺境の民と酷似だし、民が複数を連想させるので、住みにしたのでほぼ同じ意味ではないかと思われる。異邦人=辺境住みの私の社会的な存在は、蜃気楼レベルで実体がない。蜃気楼=高橋和巳氏の社会的存在、渡邊受刑者の浮遊霊だ。社会的存在であろうとする意志の強さが犯罪を選ばせたのかと思うほど、私は社会的存在であろうとする気力に欠けている。他者との間で起こることは蜃気楼に対して起こることであって、辺境に一人住まう私に変わりはない。いつ反転したのか覚えていないが、辺境にいる私の方が私なのだ。普通の人にはそれは存在していない、と異邦人を多数診てきた精神科医が本に書くまで知らなかった。いや、もう一人の異邦人が知らなかったと書くまで知る由もなかった。私の辺境は、トールキンの書くモルドールに似ている。火山ガスと硫黄たちこめるモルドールを、凍てついた、一滴の水も、生命もない場所にしたものだ。身を切る寒風が吹き続ける渇ききった世界だ。そこには私一人しかいない。社会的な存在であるためにつけられた私の名前には意味がない場所。私は名前のない存在で、名前がついているのは蜃気楼の方だ。

出所後自殺するという渡邊受刑者は、両親、いじめた人間、教師たち八人には何もする気力がないらしい。彼らは脅迫を受けた個人や団体に身代わりをさせたようなものだが、どう感じているのだろうか。そんな昔のことで自分に責任を問われても迷惑だ!くらいにしか思わないだろうけれど。いじめをした人間や子供を乱用した親は、後日このような形で社会に暴露されるとは思わなかったろう。せめてもの一太刀を八人に返せていたら、脅迫事件は起こらなかっただろうに。
改めて始まった人生は、プリズンニート生活から始まるようだが、人生の門出を少しだけ祝いたいと思う。人生の最初の呪いが解け、自分の人生と呼べるものを手にできるように、勝手に祈らせてもらおうと思う。

2014年10月22日水曜日

変えられないことは諦めましょう

私の持つ罪悪感。祖父を助けられず、そのため母を助けることができなかったこと。わかっていながら何も変えることができなかったこと。今の私なら当時の私に対してこう言うのではないのだろうか
目に見えること、今わかっていることだけでこうなってしまったのではないんだよ。あなたが知らないこと、気づいていないこともあるから、どんなに頑張っても変えることはできないんだよ。おじいちゃんのこともお母さんのこともお父さんのことも諦めなさい。あなたが諦めて何もしなくても同じことだよ、なぜかって?こうなったのはあなたのせいじゃないからだよ。
究極に無力だなと思うが、子供ならそれは当然だと思う。大人が果たすべき役割が果たされていないからといって、子供に代わりに果たせるものではない。大人が家庭で果たすべき役割を果たさなくても何の罰則もない。放棄された責任を子供が果たそうとしてしまうことはありがちなことではあるが、どう転んでも果たせずに罪悪感を負うだけだ。大人が責任を負うべきではないのだろうか?子供に負わせれば確実に果たせないのに、愛情がなかったのだ。私がそれでどうなろうと関心がなかったのだ。

愛情が自分にはないと思っていた。親から愛してもらえなかったから、愛することは出来ないと思っていたのだろう。前半部分は無意識に押し込んで、愛のない人間だと自分のことを思っていた。憎しみしかなかった。愛から学ぶのが一番いいけれど、同じことは憎しみからも学べるってどこで読んだのか忘れてしまった。でも、読むべき本を読んだんだと思う。自分の努力不足を嘆いてしまうが、辿り着いて読んだ本はきっと他にもあるのだ。

2014年10月6日月曜日

対人関係について

私ひとりでは私はいない。他人が私が存在しているかのような振る舞いをするから、私が存在しているのだと思う。

妙なことを考えていると思われるかもしれないが、自分がいることに確信が持てなかったことがある。誰かに話しかけられて初めて、あぁこの人には私が存在して見えるのだ、私はいるのだ…と思ったのだ。多分だいぶおかしかったと思う。

自分を労わるようになってしばらくしたら、気分が変化したようだ。自分がいるのは自明のことまではいかないが、自己ケアをする対象として以前より存在感があるように思う。まだどこかおかしい気もするが。


対人関係が薄い私ではあるが、その対人関係に私の存在がかかっているのだから、意味はあると思っている。対人関係を続けるように言ってくれた人は、私の存在がかかっているからという理由で助言したのだろうか。最初の対人関係は親とのそれであるが、残念ながら障害を受けるような類のものだった。それをなんとか他の対人関係で乗り越えようとしても、同じ傷をえぐられ、対人関係から引いてしまうのだ。


回復次第努力はするが、かなり嫌気がさしている。繰り返す度に嫌気も増加し、回復に時間がかかっていると思う。そしてようやく良くなったのにまた悪くなるリスクを負って対人関係を持つことがおそらく嫌なのだ。根本的なところで私は十代の頃と変わっていない。自信が持ちたくて努力しても自信が持てない、むしろ自信を失う。

正直休みたい。なぜこんなに疲れてしまったのか。誰からも存在していない状態となって休みたい。死んでしまいたいと思っているように聞こえるらしいのだが、休んで回復できるのではないかと思うから休んでみようと思うのだ、たぶん。死にはしないから、死にたくないから休みたい。

台風接近による気圧の変化により不調なのかもしれない。自分の体が冷えていくように感じる。温かい物を口にしてもいっときだけ。食べた後は消化器に血液が行ってしまい、かえって体が冷たくなってしまう。まだ10月なのに震えるほど寒い。

2014年10月4日土曜日

あなたにもいつか分かるでしょ、のいつかは来なかった。

母に関わっていると自分のことがお留守になる。全てが母を中心に回るようになるのだ。母は自分以外の誰にも興味はない、マウンティングするための粗探し以外には。

話は全て母自身のことになる。周りは常に二の次にされるのを身に沁みる以上に理解させられる。私も大して充実した人生は送っていないが、これほど空疎な人生を見ているのはやはりキツイものがある。母は自分自身に夢中なのだろう。私には魅力的な人には思えないが、本人は自分が優れていると思っているから仕方ない。

母について考えていると本当に嫌な気持ちになる。大人になればわかると言って、私の意見や考えを一切退けてきたが、大人になってわかったのは、母はむしろ酷いことをしていたということだけだ。いつか理解できる日が来るという期待が私にあったから、こんなにも嫌な気持ちになるのだ。どう責任を取るつもりだったのか知りたかった。ただ母には言ったことの責任を取るつもりなど端から無く、その場しのぎを言って我を通したかったのだ。

それを真に受けて、いつか分かるんだと何年も待った私が馬鹿なのだろう。母は、母の方が頭がいいんだから言う通りにしなさい、いつか分かるでしょう、とどんなに私が説明しても無視していた。右から左に聞き流しておいて、聞くだけは聞いてやったんだから自分は良い母親、黙って従っていればいいんだ、と。母のそんな高慢さ、卑怯さは私にはわかるまで何十年もかかってしまった。

自分が理解できないのは、相手の説明が悪いからで、それに従う必要などない、
相手が理解できないのは、相手の理解力が足りないせい、いつか分かるから従うべき

凄いダブルスタンダードだ。ダブルスタンダードは本人は気づかず、いい気分になっているけれど、言われた方は気づいて不快になるのだ。

開設して一ヶ月

ふと気づくと開設から一ヶ月以上が過ぎていた。なんとか続けられて嬉しいが、ふと母が死ぬまで何年もかかったらと思うと、暗澹たる気持ちになる。母のことは考えざるを得ないのだから、ブログに書いた方がいい、それは確かだ。

しかしあまりにも黒いのだこのブログは!と自分で作っておいて文句タラタラである。

表向き用のブログを作って、明るいブログ主が、ほっこり、丁寧に暮らしていますぅ☆画像をメインに、文章は簡潔、改行たくさんです!を作ってみようかと。…無理だ。
でもそれが2ちゃんねるでニラヲチされたら、嬉しくてばりばり創作してしまうかもしれない。しかしそれは遠い道のりだ。

私は、くだらない妄想にふけるのが楽しくて好きなのだ。誰かに話して面白がって欲しいと思ったりもするが、ドン引きリスクもあるのでなかなかリアルでは言えない。とりあえず当分死にそうにない母親は放っといて、何か始めてみることにする。何って言われてもチョット困るのだが…未定ですって未定なのか!?決めてからでしょう普通…?

2014年10月1日水曜日

身近な人の「攻撃」がスーッとなくなる本,水島広子

私が困っていることに対する回答のようなタイトルに惹かれ、読む。かなり実行の難しいことが書いてあるのだが、それを攻撃と解釈しなければ、攻撃がなくなることは確かである。相手を変えることはできないけれど、自分は変えられる、の典型のようだと思う。そして自分を変えることは、やっぱり難しいことではあるのだが。
  • 「脅威!」と感じるから、「攻撃」してしまう
という攻撃する側の理由については、脅威を感じさせられているのはこっちじゃ!と理不尽を感じたが、確かに納得はできる。脅威をとにかく排除しようと感情的になって喚く人が多かった。そのうち人格攻撃し始めることも共通していた。仕事に関しては、私を脅しと感じない人と仕事をするしかないだろう。技術系の仕事だし、私にも勿論技術はあるし、努力して得たものを相手にとって脅威だからといって捨てる気も封印する気も私には無いのだから。仕事で攻撃されたことは私の自信を削いでしまうのだが、自分を守るため、この考え方を採用しようと思う。私の技術如きに脅威を感じて攻撃してくるような人との仕事は長続きしない。最初から諦めることにする。攻撃される理由について理解はする必要がない、そう書かれていることはかなりありがたい。攻撃の理由については、step1にまとめられているのだが、私の側からは、詮索、媚び、など相手の領域に踏み込まなければいいだけだ。それはむしろ楽で良い。正直、相手の攻撃の理由など碌なもんじゃないので、むしろ知りたくもない。

step2では「攻撃」からダメージを受けない方法が書かれているのだが、攻撃を受けた時、「衝撃」を感じてしまって、そのこと自体がとても嫌だったのだが、切り替えがとっさにできないことは仕方のないことだということが分かった、ぶつけたらしばらくぶつけたところは痛い、当たり前なのだ。もう衝撃を受けたくないと、「避ける」「心を閉ざす」「警戒的になる」「すぐ怒る」という形で対人関係が影響される、とあった。これはその通り自分に起こった反応だったと思う。情けないが、感情的になってしまうのだ。自信がすっかりなくなってしまったが、それは「ただ衝撃への反応が起こっているのだ」と知ることにより避けられるだろうか?自信喪失して悪循環の罠にはまってしまうことは是非とも避けたい、不要なことだから。自分がダメなやつだ、ゴミ屑だという気持ちが強くなったら、「衝撃」を受けなかったかどうか振り返ろうかと思う。侮辱されることに馴らされた人間にとっては、衝撃すら鈍麻によって感じにくくなるから。気づかぬうちに忍び寄る恐怖のようだ。
  • 私は被害者の座をおり、「自分の土俵」にもどる。
相手は脅威を感じて闘争か逃走しか選べなくなっていて、内心はパニック状態なのだ。溺れる者が藁にすがるように「攻撃」にすがっているのだ。相手が溺れているのは私の責任ではない。何に溺れているのか自分の土俵から観察して、どう対処するか決めたいと思う。母の場合は自己欺瞞だったので、手伝わないことにしたのだ。攻撃に対して反撃してもあまり有効ではないとあるがそうなのだろうか?反撃はあまりしてないが、反撃して安易な攻撃をされなくなったような気もする。別の人に攻撃の矛先を向けているだけなのだろうけれど。母のように親族という対人関係の場合は反撃してみるのもありかと思うのだが、反撃したことが少なすぎてよくわからない。
  • 私が悪いから攻撃されるのではなく、相手が困っているから「攻撃」してくる
この見方を徹底させる。そして自己肯定感が低い人は「攻撃された」と受け止めがちだそうなので、とにかく自分を責めず、自分の価値を認めるようにする。「攻撃」してくる人は困っている人、被害者になることなくあくまで自由な他人であるべし!
しかし、自由であることが、相手が我慢していること、の場合それが「脅威」と取られることもあるのだけれど…これで「攻撃」されたことも結構あったような気がする。それでも相手が困っている人であることには変わりはないから、「お見舞いの一言」として、すみませんを言って、「かわす」を第一選択にするしかないと思う。特に仕事上の関係は、支障のない範囲で「かわす」、に変更しようと思う。これまでは「対処」を選択することが多かったと思う。今後は変えていこうと思う。実際の「攻撃」は突然加えられるし、第三者以降が加わって話がややこしくなるので、相手を安心させるとか、働きかけについてのstep4はやらないと思う。やっても無駄だという結論を自分が出してしまっていることに気づいた。
  1. 攻撃されても被害者役は引き受けずにいることが自信を持つ秘訣
  2. 自分にも他人にも敬意を持つ
まずはこれをよくよく言い聞かせようと思う。「攻撃」された時に頓服薬のように必要部分を読み返すといいと思うので、一読をお勧めしたい。「衝撃」を受けた直後だと通読は辛いと思うので、立ち直って対処しようという曉にはぜひ。