最近の事件は事件を起こした側が文章を書いている。事件が起こって、被害者なり加害者なりが第三者によって書き立てられて、否応なしに事件について知ることになるのだが、渡邊受刑者本人の文章がネットで読めてしまう。当事者が生きていればこそだと思う。渡邊受刑者が読んで人生が改めて始まったと言う、消えたい/高橋和巳 を私も読んでみた。高橋和巳氏は被虐待者を治療する精神科医であり、非被虐待者。渡邊受刑者と私は被虐待者である。各用語の対応は必ずしも一対一対応ではないが、おそらく対応しているのではないかと思われるものを当てはめた。
高橋和巳氏は、世界を三つ設定している。
- 普通の世界:社会的存在、普通の人が生きている
- 辺縁の世界:生命的存在、異邦人が生きている
- 宇宙:絶対的存在、自分の死を自覚したとき意識する
以上が大変ざっくりした氏の著書の大前提のようなものと言えるかと思う。ジャック・ラカンの象徴界、想像界、現実界のことだろうかと読んでいて思ってしまった。さらに渡邊受刑者がどう名付けたかと、私自身がどう名付けたかを書こうと思う。宇宙や、現実界は言語で表現不可、人間の認識範囲を超えているので、この二名には表現する語はない。
渡邊受刑者は、社会的存在となれなかった自分は「生ける屍」にしかなれず、茫漠たる怨念を持った「埒外の民」になってしまったと書いている。埒外の民とは上位概念らしいが、成人期以前の人間に適用するとしている。大人になってから、人や社会、地域とのつながりを持てれば「キズナマン」持てなければ「浮遊霊」。繋がりの全てを黒子のバスケ作者により切られてしまったと感じた渡邊受刑者は、浮遊霊からこの世に仇をなす「生霊」となった。辺縁の世界に住む異邦人である自分を分類している。変化や差異に敏感な人なのだろう…とかなり大雑把な私は思う。
自分が一連の事件を起こした動機は、「自分を存在させていた3つの設定の特に『マンガ家を目指して挫折した負け組』という設定を再び自分で信じ込めるようにするため」この文章を読んだ私の感想は、そっか、なるほどね、だった。自分しか信じていない、妄想に近い設定に対してそこまでするのか?というのが普通の感想だが、そこまでする人はいるのだ。生霊はいるではないか、かなりの頻度で。有名人や組織ではなく、立場が劣るとされているものに、弱いものに粘着しにいくから糾弾されないだけで。高橋和巳氏の社会的存在=渡邊受刑者のキズナマンになろうとしてほぼ死に物狂いの努力をしたのであろうと拝察するが、それが無になり、生霊になってしまった。生ける屍、埒外の民、無敵の人、浮遊霊、生霊は高橋和巳氏の言う異邦人かと思われる。
さて私だが、「辺境住み」と「蜃気楼」だ。埒外の民は辺境の民と酷似だし、民が複数を連想させるので、住みにしたのでほぼ同じ意味ではないかと思われる。異邦人=辺境住みの私の社会的な存在は、蜃気楼レベルで実体がない。蜃気楼=高橋和巳氏の社会的存在、渡邊受刑者の浮遊霊だ。社会的存在であろうとする意志の強さが犯罪を選ばせたのかと思うほど、私は社会的存在であろうとする気力に欠けている。他者との間で起こることは蜃気楼に対して起こることであって、辺境に一人住まう私に変わりはない。いつ反転したのか覚えていないが、辺境にいる私の方が私なのだ。普通の人にはそれは存在していない、と異邦人を多数診てきた精神科医が本に書くまで知らなかった。いや、もう一人の異邦人が知らなかったと書くまで知る由もなかった。私の辺境は、トールキンの書くモルドールに似ている。火山ガスと硫黄たちこめるモルドールを、凍てついた、一滴の水も、生命もない場所にしたものだ。身を切る寒風が吹き続ける渇ききった世界だ。そこには私一人しかいない。社会的な存在であるためにつけられた私の名前には意味がない場所。私は名前のない存在で、名前がついているのは蜃気楼の方だ。
出所後自殺するという渡邊受刑者は、両親、いじめた人間、教師たち八人には何もする気力がないらしい。彼らは脅迫を受けた個人や団体に身代わりをさせたようなものだが、どう感じているのだろうか。そんな昔のことで自分に責任を問われても迷惑だ!くらいにしか思わないだろうけれど。いじめをした人間や子供を乱用した親は、後日このような形で社会に暴露されるとは思わなかったろう。せめてもの一太刀を八人に返せていたら、脅迫事件は起こらなかっただろうに。
改めて始まった人生は、プリズンニート生活から始まるようだが、人生の門出を少しだけ祝いたいと思う。人生の最初の呪いが解け、自分の人生と呼べるものを手にできるように、勝手に祈らせてもらおうと思う。
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