親の愛は絶対だ、無いというのは子が悪い!という前提である社会や他人この二つのズレがどうしようもなく苦しかったのだと思う。親の愛が絶対なら、私にこのままずっと支配されていろと言うのか⁉︎という怒りと驚愕だ。
私の親が私に与えたものは絶対に愛ではない!という私自身の感覚
ずっと支配されていろ、でも他人や社会には愛されている、自由にさせてもらったと言え!と親に強要されてきた。誰が食わせてやっている、住まわせてやっているんだ、誰のおかげで生きているんだ!犠牲になっていりゃいいんだ、お前が我慢すればいいんだ!と、親からも他人からも言われ続け、逃げ続けてきた。その結果私の居場所はどこにもなかった。親の家は最も支配される場所で、支配され、心を喰われる場所だった。
常に移動し続ける草食獣のように、他の人たちのなかに隠れながら、一つ所にとどまらないように、悪目立ちしないように生きていた。人の心を喰う人外たちも混じる集団のなかではそもそも無理なことなのだが、数が多いことだけが救いだった。両親の家では喰われるしかなかったから、たまに逃げられるだけマシだった。これをマシと言ってしまう私は自尊心が全くなかったと思う。
支配しようとする人間は惨めで醜悪な人間だ。私のことを、優しい人間だ、優しくしてくれ、我慢してくれ、と泣き落としにかかったり、私の拒否に対して怒って見せたりと三文芝居を繰り広げる。それはそれは醜悪である。本物の芝居を見たことのある人間にそんなものは通用しない。ただひたすら大根役者め…と思うだけだ。決められたセリフを言わない、筋書き通りに動かない私に対して心底吃驚した顔、傷ついた顔をする。その顔は、思い出しただけで笑えるくらいの無様な顔だ。鏡見てご覧?と鏡を差し出してやりたくなる。唾棄すべきものに対しては、唾棄してあげるのが正しい対応なのだろう。それをかわいそうに思って不問に付するのはむしろ不親切なのだろう。「ザマァ」と言ってあげている人たちはむしろ親切だと思う。鏡になってどう見えるかはっきり教えているのだから、曇りない鏡だと思う。歪んだ鏡となり、相手の妄想通りの支配者様を映してきたのが支配されちゃう私だ。
支配されちゃう人間であることを辞めるのは難しいことだが、自己催眠療法とカウンセリングを地道に続けることでいいらしい。方向性に間違いはない、ということはとても安心できる。何処まで回復できるのかは私にとっては高望みだと思う。必死にやっていることが根本から間違ってさえいなければ、大した成果が得られなくても、おそらく納得だけはできるだろう。私はこれまで、納得していないことのために努力してきて後悔してきたのだ。誰が泣こうが喚こうが自分が納得したこと以外はしない。決して。
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