2014年11月20日木曜日

生活の質/QOL

quality of life,QOLとは一人一人の人生の内容の質や社会的に見た生活の質のこと。
どれだけ人間らしい生活を送り、人生に幸福を見出しているかということを尺度とする。

社会的地位が高いことも、経済的な優位も幸福を見出せないかぎりはQOLを上げることはなく、生活水準とは別の尺度である。医療面で侵襲的な治療を受けるか否か、終末医療をどう選択するか、など限られた状況でしかお目にかからないが、人生の質は、年齢や状況に関係なく常に考慮していいと思う。

さて、私のQOLはとても低いと思う。ありのままの私は拒否され、母の評価にすぎないものを押し付けられ、母の不安はプレッシャーとして私に押し付けられた。結果として私は、自分を知られたら嫌われると思い、自分の意見に自信がなく言いたいことが言えず、自分の気持ちを他人に伝えられずに我慢してしまうようになった。著しくQOLの低い人生を送ってきたと思う。母は一時的にせよ、それでQOLを上げていたのだろう。これは私が止めるように言って止めさせられるものではなく、母の死によってしか止むことはないのだと思う。私が母の死を望むのは、私のQOLを下げようとしないで欲しいからだ。私のQOLを下げてまで母に生きていて欲しいとは思っていないのだ。死ぬまで私に対して批評家の立場を取り続け、ダメ出しをし続けて、自分のQOLを高くするつもりだということは分かった。このことに関して私にできることはもう何もない、諦めることにする。

私は何の意味も無いのだ。母親にとって好都合なサンドバッグで、人間として見ることはなかったのだ。だから私は他人からもダメ出しをされるサンドバッグになったのだ。

自分がなぜこうなったかを知ることは、常に救いだと思う。母親にとってサンドバッグだった私は、私自身にとっては何か。もちろん人間である。自信がなく、QOLの低い人生を送っているが、人間だと思う。自分のことをゴミだ、ムシケラだと思い、そこから這い上がろうとしているものは人間だと思う。もう疲れてしまって這い上がる気力も尽きてしまったように思うが、私は人間なのだ。

母が死に、私の人生の始めからQOLを落とし続けてきた人間が去って行く。私のQOLと引き換えに母のQOLを上げることは母の死をもって止むのだ。

母の死を現実のものとして考えるようになって、自分のQOLを上げるための試行を再び始めようという気力が湧いてきたと思う。これで私のQOLを上げられなかったら、再度何が理由なのか探り、再々試行しなくてはならなくなるが、おそらく大丈夫だという謎の確信めいたものがある。

私の「母親」はもう死んだ。法的に母の立場にある人間が生きていようが死んでいようが、私をどう使おうが、もう私には無意味になってしまった。母の立場にいた人間を私なりに愛したつもりだったが、それは過去のことであって、今はもう諦めてしまったのだ。大切だったが、今はもういらない。なくても生きていける私になろうと思う。いらないものを抱えて生きていくのは、意外と重荷で、辛いものなのだから。QOLが下がってしまうことはしたくない。手放して生きて行きたいと思うのだ。

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