2015年5月10日日曜日

母の死後変わったこと

私は母方の親戚とあまり付き合いがなかった。そう、母が嫌がったからだ。いとこが大勢いるのでそのうちの何人かと約二十年振りに会った。モラハラをする人間はターゲットを他の人間関係から切り離し、自分だけと付き合うように仕向けるものだが、まさにそれだと思った。もちろん、もっと立派な人間と付き合うべきだから、という正当化をしていたのだが。

それを母自身だけでなく、子供たちにも強要したことが問題であったと思う。私が親戚との関係を維持すれば不機嫌になり、嘆き、消極的な攻撃をした。その操作に私が根負けをし、不義理をしていたのだ。母親より、母親以外の人間の方がバラエティに富み、豊かな対人関係を持てるのだが、罪悪感を巧妙に掻き立てる母親に屈してしまったのが私の過ちだったと思う。母親は自分で言うほど、信じ込もうとするほど不幸ではなかったと思う。何より、自分の不幸をネタに他人を強請っていい人間などいないと思う。

母親が私に与えていた影響に、母親が亡くなって久しぶりに自分がとった行動に驚かされてようやく気付く。自分で解っていないから、影響と言うより洗脳に近いと思う。影響を受けたことに対する自覚があり、自発的にその行動をとっているなら単に『影響を受けた』だけだが、自覚がなく、自発的な行動が阻害されているのなら『洗脳』だと思う。

子供の好きにさせてやった、自由にさせてやった親のはずなのに、私の自発的な行動を阻害している。この矛盾を母自身から隠し、私にも気づかせないために、私を洗脳することを選んだのだろう。親は正しく、偉いものだとする幻想にそんなにすがって一体何がしたかったのだろう。全く幸せそうに見えなかった。母親のことを正しい、偉いと思っている人間など一人もいなかった。

どういう経緯でそこに着地したのか知らないが、骨身を惜しんで自分から何かすることをせず、努力や失敗は他人にさせ、成果だけ盗ろうとしてそれに失敗したのだと思う。私の頭の中にあることや、身につけたものは取り上げて自分のものにすることはできない。物質ではないからだ。せいぜい私が選んだものや、他人から私が贈られたものを、物欲しそうな顔で私に献上させることができただけだ。

失敗をすることを何より避けようとして、人生を失敗させたように思う。楽をしようとして損をするのが好きだったのかもしれない。

私は母親を理解することはないと思う。同じようなことを経験した人間にしかできないと思う。誰にもわかってもらえない、娘なんだからわかってくれと要求されても無理なのだと思う。娘である私を理解していないのに、自分の理解を要求するところも理解できない。

母親の『わかってくれね…』は、他人ならとてもじゃないが受けてくれない理不尽や不利益を無理やり私に飲ませるための呪文の言葉だったのだろう。呪いが解けるということを生まれて初めて私は経験しているのだと思う。両親の死によって得られたものだけれど、罪悪感など放り出して、それをこの手に掴もうと思う。呪われていないということは、祝福されていることと殆ど同じことのように私には思われるのだ。

2015年3月5日木曜日

母の死

このブログの目的であった母の死が来た。自分がそれに動揺したり、影響されたりすることが予想されたため、不安を和らげるためにこのブログを始めたのだが、恐れていたより影響は受けなかった。二日病院に泊まり、家族葬とはいえ調べたり探したりすることは多く、疲れて見えたらしく、看護師の方や葬儀社の方にはとても気を使っていただいた。まるでごくまともな娘に見えたのだろうけれど内心は全く違うことを考えていた。いじめられっ子が何かの間違いで自分をいじめた人間の死に目と葬儀に立ち会ったときに近いと思う。母が子供をいびっていたことなどはた目にはわからなかったように、私が母の死をむしろ喜んでいることなど知りようもないことなのだから。

結論から言えば私は母の死を悲しめなかった。大して苦しまずに済んだことに関しては、正直つまらないとさえ思った。もっと苦しめば私にも少しは同情心というものが湧いたかもしれないのにと思う。湯灌のときは足元に座ってしまい、幼児の頃に折檻されたときと位置関係が同じになってしまい、過去に飛んでしまった。その頃の母の写真もみたが、私の髪を掴んで台所まで引きずり、床下収納に蹴り落として蓋をし、その上に立って怒鳴り散らしていた人間と同じ人間とは思えなかった。般若顏で撮らせるわけはないけれど。

父と母の遺影が並んで置かれている祭壇に向かって思ったことは、

私のせいにするな、あなた方夫婦の問題だ
私のせいにするな、全部お返しする、私は関わらない!

だった。

子供だった私はバカだった。親に言われたことをそのまま受け取った。親の顔色をみて動くことを強いながら、顔色をみていると顔色をうかがうなと怒鳴りつけ、満足などしないくせに、自分が欲しいものを代わりに子供にとらせた挙句、自分の手に入らないと子供を攻撃してくる親でも、幸せになってほしいと努力をした。結局のところ親の嘘や欺瞞を見抜けなかった私が悪いのだ。もちろんこういう考え方がよろしくないことはわかるのだが、親にその自覚がない場合、問題を回避する責任は私だけに負わされる。

親を含めた他人に騙されたり、背中から撃たれたくないのなら、自分がそのように利用されやすい人間でいることを辞めるしかない。これからは他人を攻撃するようになるのだろうと思う。親はおそらく親にだけは反抗するなというつもりだったのだろうけれど、そんなに都合良くはいかない。誰にも反抗できなくなる人間も多いと思う。私はそのタイプであり、反動で攻撃的な人間になるのだろうと予想している。そしてそれを嫌だと思っていない、おそらく私の本質には十分な量の攻撃性があって、ただ使われていなかっただけなのだと思う。うまく使いたいと思うのだが、加減がわからず過剰に攻撃してしまうであろうこともまた、私にとっては楽しみなことでもある。

その死を悲しめる母の元に生まれてきた人を、羨ましいと思う。私にはその気持ちがわからなかった。そしてそれがどれほど悲しいことなのかも理解することはないのだと思う。

2015年2月21日土曜日

私がしておきたいことは

だいぶ間があいたが、ようやく目処の様なものが立ってきた。医師の予想の通りであれば、来月母は死亡する。親子仲の良い方達に不愉快極まりないと思うのだが、ようやく勝てそうで嬉しい。私は事故などで急死はしたくない。死んでくれと願い続けてきた人間がようやく死ぬのだ。これを逃すなんて嫌だ。私が今、母に対してしていることは他人から好評価を受ける。全くもって納得がいかない。内実など知らず、人は苦しむ人を無理解でさらに苦しめたり、体裁を取り繕っているだけの人間を思い込みで褒めたりするのだ。これでは子供に対する虐待が見過ごされるのも当然だ。

今の私は父の死と母の闘病を自分の都合がいいように利用したいと思っている。参加したくもない飲み会は忌中と言って断り、モラハラ臭と加齢臭漂う勘助にはあからさまに拒絶的な態度をとっている。母というモラハラ女が弱ってきて、私が優位に立ち始めたことが、対人関係に影響するとは思わなかった。母以外のモラハラ者にも強気に出ることが可能になり、怯まずにいられそうだ。不安や恐怖に負けず、これをしっかりやり遂げられたら自己評価が上がるかもしれないと思っている。

モラハラ者は死ぬまでモラハラ者で、拒絶する以外にない。母のやり方は大声で喚き散らし、相手を圧倒するというものだったが、肺が機能を失うに伴いこの手が使えなくなった。相手の言葉を自分の怒鳴り声で遮り、何も言えないようにすることができないのだ。母の息切れをみながら、ようやく邪魔されずに自分の意見を言う余地を得た。

私が言っていることをただ聞いているしかなくなってどんな気持ち?
自分の言いたいことだけを怒鳴りまくって相手の口を塞いできたのに、相手の言うことを聞いているしかなくなるってどんな気持ち?

と聞いてみようと思う。返答をぜひ聞いてみたいので、まだ口が聞けそうなうちに聞いてみたい。本格的に口が聞けなくなったら、二人だけのときに母が私にしたように、一方的に私だけが言いたいことを言って母には一言も言わせずに、存在を無視するのもいいかもしれない。

そして自分にも聞いてみたい。自分の言いたいことを一方的に言って相手の意見を一切聞かず、一言でも言ったら即全否定するってどんな気持ち?と。なんだか既に胸糞悪いが、胸糞悪いことを喜々として執拗に繰り返した母が理解できない。やったら癖になるほど気持ちのいいことかもしれないので、一度は試してみようと思う。他人に対してやったら卑怯者だが、母に対してやる分には母を理解したいがためという体裁のいい理由があるではないか!と思うのだ。

2015年2月2日月曜日

死者と生者

父が亡くなってからそれなりに日が経ったが、まだ慣れていないように思う。私が生まれたときからいた人がいなくなったのだから、まだ馴染んでいないのは仕方ないことかと思う。いくら存在が薄かったとはいえ、やはり不在を実感する。親子に生まれた割には関わりが薄く、お互いに関心があまりなかったのだろうなと思う。実生活上の変化は全く無いので、喪失感を感じる自信がなかったが、人並み以下であっても喪失感は感じるのだ。

誰かが我慢しているときに、自分も我慢しなくてはならないと私は感じる。だから父が死んだ今、私はもう我慢しなくていいのだと思っている。父が我慢していたのかは知らないが、私にはそう見えたし、私も我慢しなくてはならないと思っていた。そんな状況がとても嫌だったが、自力で自由になることができなかった。父が死に、私は自由になった。人間であるなら、自力で自由になるべきだと思うのだが、私にはそれができなかった。だから父が死んで喜ぶような人間にしかなれなかったのだと思う。

私が悲しんでいるのは父の死ではなく、自力で自由になることができなかった自分が悲しいのだと思う。父の死を悲しめるほどの関わりが父との間にあったわけではない。お互いのことを知らないまま、ただ無為に長い時間を過ごしただけだった。相手がいなくなり、もう話すことができなくなった今、話すこともなく理解もない対人関係に悩むことはなくなった。仕事は辞めれば苦痛の元となる関係は終わるが、家族の場合は誰かの死によってしか終わらない。少なくとも私には終わらせられなかった。どこでどう間違ったのかも、もうどうでもいいことだ。終わってくれたのだから。

死者には権利が無く、生者の好きなようにされるしかない。これまでずっと子という弱い立場に甘んじてきたが、死者はなんの主張も行動もできない。死者に対して絶対的に強い生者という立場を手に入れた。親子という関係が、生者と死者という関係になることによって逆転した。対人関係上で強い立場を手に入れるということはとても気分が楽なことだ。私は父が死んでも何も感じないのではないかと思っていたが、そうではなかった。自分から奪われていた力、強い立場というものを得て、ようやく生き返ったような気分になったのだ。

2015年1月20日火曜日

無事に死ねるように生きる

父の葬儀は仏式で行った。熱心な仏教徒ではなかったのだが、父の兄弟全員先に逝き、皆仏式で、一択だった。現在お寺関連で問題が発生してはいるのだが、決定権が私には無いので、成り行きに任せる。万が一この先私に決定権が来たときには容赦無く決定させていただくが。

父の人工骨は、簡単ではあるが弔おうと思う。ネット検索はとても便利で、寺院、葬儀社の方のブログや仏具屋さんのサイトをみて回った。Wikipediaは情報が多くてかつ商業目的ではないのでとても参考になった。

花、お香、灯明はどの宗教にも共通する率の高いものだし、三仏具として最小のお弔い用品らしい。本尊が無いので仏壇とは言えないし、使っている道具も仏具ではなく、日常使いを使っている。私自身が無宗教であっても、なんらかの形がある方が気持ちが落ち着くのだ。儀式が定型なのはそのためだと思う。同じ手順で同じ動作を繰り返すことは作業療法的なことなのだろう、不思議と気持ちが落ち着く。

私が用意したのは「魂棚」とでも呼ぶようなものだと思う。私が死ぬときはこの人工骨は行き場所がなくなるが、時期をみて土に埋めようと思う。私の棺桶に入れてもらってもまた燃え残って、骨壷に入れられません…になるのだろうから。

私は自分の死後、遺体をどう扱うかを決めておかなくてはならない。そしてそれを周りに通しておかなくてはならない。その場の思いつきだけで、ああだこうだ言うだけなら周りが迷惑するだけだ。きちんと根回しをし、予約をし、プロを雇っておかなくてはならない。自分が死亡していてできないのだから、他人に依頼するしか無いのだ。

日本の場合は医師の死亡診断書が火葬のために必要なので、家で死んだ場合検死が必要になる。家まで来てくれる医師がいれば良いが、誰かに運んでもらい、その後また葬儀のため家に戻るか葬儀場へ、それから火葬場へ行って、お骨にして埋葬するのが大筋だが、かなりの負担になる。できれば病院で死亡し、診断書を書いてもらい24時間待つ間に斎場でお別れ会して火葬、お骨をお別れ会に来てくれた誰かに拾ってもらって私の指定した場所に埋葬、がどうやら最もシンプルな方法だ。

できれば気に入った公営斎場がある自治体を終の住処にしたいと思っている。これまでいろんな土地に住んで、物価や女性が一人で暮らせる安全性、公共サービスの利用しやすさ、公共交通機関の充実度などに注目していたが、公営斎場と埋葬地も調べて選ぶ必要がある。自宅葬の風習が強い土地や、寺の墓地しかないところには、不安で住むことができなくなるだろう。流れ者が他所の土地で死ぬことになるのだから、しっかりするしかないのだ。迷惑をかけることのできる誰かを探し出して、迷惑をかけてもかけられても構わない自分になって、自分の死にたい様に死ぬことができるようになりたいと思っている。

2015年1月19日月曜日

呪い返しは突然に

母が父の死を悲しんでいないように私には見えると書いたが、他者に対する情がない人なのではないかと思う。無自覚に人を呪う言葉を吐いているのかもしれないが、呪いは呪いだ。

心理学の実験で、女性であることや人種について言及した後、例えば女性は数学的な能力が劣るとか東洋人は数学の能力が高いとかの話をした後に、数学の問題を解かせると正答率が有意に変化するという報告がある。女性で東洋人の被験者は正答率が前者では下がり、後者では上がった。同じ人物が同じ難度の問題を解いたのに、だ。私の母はこれを知らないのに、活用していた。母は、私が気に入らないことを言うとネガティブな予言をする、そして失敗しないようにと叱りつける。まだ失敗していないにもかかわらずだ。失敗するという言葉を聞いた私は、失敗する私を頭の中に浮かべてしまい、より失敗しやすくなるのだ。

車を運転する予定があって、出かける直前に、あんたは事故を起こすから、注意しなさい!と断定的に強い口調で言われた。直前に葬儀のことで、口論をし、母の意見を真っ向から否定したのだ。体裁など気にするべきではないという母に、自分が体裁屋なくせに何を言っているんだ、大げさでなくても葬儀はしなければならないことだ、喪主になる人間のことを考えてものを言え、と。母は本気で自分は体裁など気にしない人間であると思い込んでいるのだろう。仕返しとして呪いの言葉を吐き、失敗すると暗示をかけ、失敗をしたら責めて優位に立つのが母のやり方だが、今回は私の反応が違っていた。

そうやって事故を起こせばいいんだ!と人を呪うようなマネはやめてよ!

呪いを呪いだと宣言し、速攻で打ち返したのは生まれて初めてだった。巧妙に、心配をする母、という体裁をとっているので今まで呪われるがままだったが、気をつけて行っておいで、と相手の無事を祈る人ならば言うはずだということが本当に理解出来たのだろう、なんて縁起の悪いことを言うんだ、私に悪いことが起こらないようにという意味ではなく、失敗しろ‼︎と願っているんだ…この人は。そして自分ではそれを自覚しないようにしているんだ…とすぐにわかったのだ。

呪い返しは倍返しになるのだろう。トイレでゲェゲェ言っていたが、実際には吐いていない音だったので、無視して予定通り車で出かけた。帰ってきたら本当に吐けなかったらしく、胃に転移したんだ、と言っていた。もちろん今さらどこに転移しても大差ないよ、と励ましてあげた。自分が体裁屋であること、人を呪うことを指摘され、呪いが返ってきて動揺したのだろう。それを自覚することからも逃げ、転移があるから吐きそうになったのだと自分を誤魔化しているのが、やっぱり学ばない人なのだとその徹底ぶりにはある意味感心した。

父の忌中であるし、仏壇に手を合わせ、仏飯を供えたりすると邪魔をしてくる。まるでそんなことはしなくていいから、自分の方に気を使えと言いたいかのように父の悪口を言う。悪口をやめて欲しければ、自分を優先しろと脅されているような気持ちになる。

これが五十年以上連れ添った夫婦の成れの果て。でもそれも終わったのだ、と試しにポジティブに考えてみている。自分の現住所のある市へ戻ったときには気持ちが緩んだのか、歩きながら泣いていた。背中のリュックには斎場でいただいた人工骨頭があるのだ。人工物はお骨とはみなせないとのことで、私が持ち帰った。父が旅先で購入した、お経の書いてある扇子も一緒に。

妻が生前と変わらず自分を悪く言っている家にいても代わり映えというものが無いのではないかとも思う。人工骨頭であってもしばらく父の一部であったものは私と移動していくのだ。どこに辿り着くのかわからないけれど、ともに流転しようと思っている。

2015年1月12日月曜日

悲しむのは後だ

父が死んだ。その後でこうして投稿している私も大概だと思う。悲しんでいないわけではないのだが、要介護の母の方に私が、父に兄がついたためかとも思う。父の傍にいたら、悲しむこともできるのだが、悲しんでいない母、自分のことしか考えていない母といると悲しんでいる余裕はない。母の死に対応するためのブログだったが、父が先に死に、母が残っている以上、母が死ぬまでは油断できない。

兄と交代して父につくまでは父の死について考えている場合ではない。死に対して私はあまり深く考えてはいないが、ある種の変化だと思っている。死ぬまでは死がどういう物なのか本当にはわからないが、肉体だけが生者たちに残されているのではないかと思う。魂と肉体の別れが死ならば、魂が好きなところへ去っていけるよう願うのみだ。父が自由になっているのなら、私も自由になってもいいような気がするのだ。

2015年1月10日土曜日

私を忘れた人に会う

父について年末に投稿したが、また書くことになった。今週くも膜下出血と脳内出血を起こして入院、今は死を待っている。認識もほぼできないということで、ただ死んでいないだけなのだ。

それでも今日はまだ話が出来たような気がする。目が開いていて、私をみているような気がしたので聞いてみた。

私のことを忘れた?と。
父は私を見ながら、うん、と言って頷いた。

心から笑った。父と思っていないし、娘だと思っていない。今会った人だ。また私を忘れるから、また会いに行ける。会ったらがっかりさせることもすることもない、見知らぬ誰かになったのだ。はっきりしない言葉でも、わだかまりなく言いたいことを言う父はとても接しやすい。父と話して楽しかったことなど幼児のとき以来だと思う。

お兄さんと、妹と弟にもうすぐ会えるよ、と言うと
本当?と驚いた顔で聞き返してきた。

子供だった頃のことは深く記憶に刻まれていて、呼び起こすことができるのだろうか。率直な会話ができることはとても嬉しい。父にとって大切なものが何か私は知らないが、父のことを大切に思っていた誰かのことを思い出していてほしいと思う。

父だった人は、私を祖父から守らなかった。目の前で祖父に嫌なことをされている小学生の私、助けてほしいと父を見た私から目をそらした。自分の娘より自分の父が大切だったのだ。父から守ってもらえなかった娘の私などゴミ同然だと思っていた。そのことを二十年後にようやく酷いじゃないかと言った私に、そんなことは覚えていない、知らないと父は言った。娘であったから助けることもせず、その上それを忘れても逃げられないと思っていたのだろう。でも今は自分に娘がいたことを忘れてしまった。ようやく私は自由になったのだ。

お父さんを許すよ、と誰にも聞いてもらえない言葉を父だった人の前で言ってみた。なんだか悲しいんだけれど可笑しかった。