2014年9月17日水曜日

セス・アイボリーの21日,星野之宣

星野之宣のスターダストメモリーズという短編集のなかの一編。

この短編は、私が小説も含めて最も好きな短編の三つに入ると思う。漫画に限ればこれが一番である。電子書籍にもなっているので、ぜひお勧めしたい。スコラから出版されたものをもっているが、別の出版社から再販されているので、手に入りにくいものではない。がしかし、好きすぎるあまり、テキスト化してみた。絵での表現の方がもちろん良いが、13編中の1編だけのために購入する人はもともとファンで読んでいるはず。星野之宣って誰?な方のため、無謀にもテキスト化した。祖母〜母〜娘と女性だけのお話で、原作なしで男性に描けるとは驚きなのだ。ネタバレが嫌な方のため、別のページに上げておく。

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私がおまえだったら!という言葉は、私が母から非言語的にも言語的にも聞かされてきた言葉である。そしてこの短編のなかで、この言葉が主人公の口から出た時、涙が出たのだ。これまで母の口から出たその言葉、同じ意味で使われていたにもかかわらず、その言葉に対しては不快と拒絶しか持てなかったのだ。

その心情を理解できた、理解できたからこそ、泣けたんだと思う。ただ剥き出しの感情をぶつけられても、理解はできなかった。虚構のなかで、あり得ない設定のなかで表現されたものが私に理解をもたらしてくれたのだ。表紙も入れて24ページ、5分以内でよみ終わるものが。

何かに一矢報いたいと、私がおまえだったらという感情を直接ぶつけることはその相手に理解されることはない。それができるのは、それを仕事にしているプロだけだ。

感情を直接的に感じながら他者に提示する行動、それは攻撃だ。
感情を間接的に言語、画像、音楽などに変化させて提示する行動、それは表現だ。

相手に理解される可能性があるのは表現であり、攻撃ではない。理解を求めている相手が、攻撃により離れていくことは人間の不幸のなかでも、悲惨度の高いことだと思う。

攻撃を受けたとき、攻撃を見たとき、私はどこかで相手が理解を求めていることが分かったのだと思う。被害者の立場でありながら、理解できないという自責の念を感じてもいたのだ。よしんば理解をしても、攻撃してくる本人は、自分のしていることが攻撃であることにも、それには理由があることにも自分で気づいていない。自分が何かを欲求していることを知らないまま、誰かが欲求を満たしてくれることを望んでいるのだ。自分は何も要求などしていない、それが生じる前に誰かが読み取って要求を満たしてくれるから。これを達成してあげられなかった私は、自分の無力を自分で責めてしまうのだ。どんなに無茶な要求でも、対人関係によっては満たそうとしてしまうことがある。満たせなかったことに罪悪感を感じることがある。そのような対人関係は依存的としか言えないのだが。

母セス・アイボリーは今しか生きられなかった。過去も、未来も持てなかった。今、という瞬間しか生きられないセス・アイボリーの持っているのは、高純度の感情だ。本人が気づかないようにできるような低品質の感情ではないのだ。自分の感情を引き受けて、その一生を過ごしたセス・アイボリーは、その母にもその娘にも深く愛された存在だ。母と娘のなかにしか存在したことのないセス・アイボリーは純度の高い感情の結晶のようだ。物語を読んだ人の感情に、新たに結晶を形成する核となってくれるような気がする。

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