自分で自分の心をあざむくこと。自分の良心や本心に反しているのを知りながら、それを自分に対して無理に正当化すること。
辞書ではこれが意味となっているようだが、知っている、とは限らないのではないだろうか。自分で自分の心を欺いたことを自分から隠すところまでを自己欺瞞というのではないだろうか。意識の上では「知らない」ことにして、無理なく正当化するのではないかと思う。意識の上か下かはものすごく重要だと思う。
自己欺瞞はしたと同時に自己欺瞞であることを隠され「正当な考え」とされるのだ。おそらく無理に正当化していることが意識の上にある人は、一人で自己欺瞞するであろう。他者の目からは無意識に隠そうとしているものがよく見えることを知っているから。
私と母の関係上での用法は
母の自己欺瞞に巻き込まれたと私は思っている。考えを持つことを許さず、母自身の考えを押し付ける相手だったのだろう。母にとって娘とは、他人との間ならモラハラか虐めとされることでも、やっていい相手だったのだろう。正当化しながらモラハラや虐めを続けられるのは好都合だったのだろう。
自分で自分を騙す母は、恐ろしかった。どんなひどいことでもできる。どんなに私を傷つけても、私以外にばれなければ、「私はやっていない」と思い込む。私は手足の様なもので、ひとりの人間ではない。他人だという感覚がないのだ。現実とは、私を除く他人からどう見えるかであって、どう見えるかコントロールすれば現実が克服できると思っているのだ。実際にやったことでも、やっていないと人に思わせられれば、「私はやっていない」ということになる。立派でなくても、他人に立派であると思わせられれば、「私は立派である」ことになる。
何一つ現実は克服できないが、自己欺瞞により、非現実的な理想化された母になっていた。周りは感謝してすべてを差し出すべきという、出来損ないの教祖様だった。他人は無理だから教祖様ではなく、母親になったのだろう。今では他人がどう思うかすら、自分の思い込みで決めている。まだ他人に言われたことに、激昂していた頃の方がマシだったのだろう。他人にすらどう感じるか決めさせなくなった母は、周りに距離を置かれる人になったと思う。とことん自己欺瞞する母はどんな死を迎えるのだろうか。自己欺瞞のなかに逃げ込んでも、死だけは正確に追ってくる。どこへも逃げられない。どんな風に死ぬかという死に方に選択の余地がたまにあるだけで、死なないという選択はない。
これまでに、自己欺瞞をやめ、自分自身の責任において選択し、自分のなかに何かを作る、という選択をする機会はあった。ささやかだし、大したものができないのが嫌で、本当は凄い自分という自己欺瞞を選んだのだろう。それはひとりでもできることであって、私を巻き込まないで欲しかった。凄いと錯覚するために私をこき下ろして、得たものではささやかにすら自分のなかを満たすことはできない。どれだけこき下ろしても満足しない母に、果てし無くこき下ろされ続ける人生。そんな人生を私に押し付ける人が母なのだと思いながら、欲求不満を漲らせる母に圧倒され続けていた私は、果たして本当に存在していたのだろうか?母にとっては間違いなく存在していない、存在を抹消されたものだ。この世でその惨めな、哀れな子の存在を認めることができるのは私だけだ。だから、母親のすることは私のためを思ってのことだと自己欺瞞することは、私にはできない。母の人生にとってよくないこと、責任転嫁や自己欺瞞のために私を利用したことは、決して許すことはできない。そんなことのために私は生きてきたのではない。自分はかわいそうだから、被害者だから、誰かから何かしてもらっても、誰かに八つ当たりしてもいいなどという自己欺瞞はひとりでやればいい。
私にとって自己欺瞞とは、やったら死ぬときに後悔することなのだと思う。やるならひとりで、誰の手も借りずにやることにする。
私と母の関係上での用法は
母の自己欺瞞に巻き込まれたと私は思っている。考えを持つことを許さず、母自身の考えを押し付ける相手だったのだろう。母にとって娘とは、他人との間ならモラハラか虐めとされることでも、やっていい相手だったのだろう。正当化しながらモラハラや虐めを続けられるのは好都合だったのだろう。
自分で自分を騙す母は、恐ろしかった。どんなひどいことでもできる。どんなに私を傷つけても、私以外にばれなければ、「私はやっていない」と思い込む。私は手足の様なもので、ひとりの人間ではない。他人だという感覚がないのだ。現実とは、私を除く他人からどう見えるかであって、どう見えるかコントロールすれば現実が克服できると思っているのだ。実際にやったことでも、やっていないと人に思わせられれば、「私はやっていない」ということになる。立派でなくても、他人に立派であると思わせられれば、「私は立派である」ことになる。
何一つ現実は克服できないが、自己欺瞞により、非現実的な理想化された母になっていた。周りは感謝してすべてを差し出すべきという、出来損ないの教祖様だった。他人は無理だから教祖様ではなく、母親になったのだろう。今では他人がどう思うかすら、自分の思い込みで決めている。まだ他人に言われたことに、激昂していた頃の方がマシだったのだろう。他人にすらどう感じるか決めさせなくなった母は、周りに距離を置かれる人になったと思う。とことん自己欺瞞する母はどんな死を迎えるのだろうか。自己欺瞞のなかに逃げ込んでも、死だけは正確に追ってくる。どこへも逃げられない。どんな風に死ぬかという死に方に選択の余地がたまにあるだけで、死なないという選択はない。
これまでに、自己欺瞞をやめ、自分自身の責任において選択し、自分のなかに何かを作る、という選択をする機会はあった。ささやかだし、大したものができないのが嫌で、本当は凄い自分という自己欺瞞を選んだのだろう。それはひとりでもできることであって、私を巻き込まないで欲しかった。凄いと錯覚するために私をこき下ろして、得たものではささやかにすら自分のなかを満たすことはできない。どれだけこき下ろしても満足しない母に、果てし無くこき下ろされ続ける人生。そんな人生を私に押し付ける人が母なのだと思いながら、欲求不満を漲らせる母に圧倒され続けていた私は、果たして本当に存在していたのだろうか?母にとっては間違いなく存在していない、存在を抹消されたものだ。この世でその惨めな、哀れな子の存在を認めることができるのは私だけだ。だから、母親のすることは私のためを思ってのことだと自己欺瞞することは、私にはできない。母の人生にとってよくないこと、責任転嫁や自己欺瞞のために私を利用したことは、決して許すことはできない。そんなことのために私は生きてきたのではない。自分はかわいそうだから、被害者だから、誰かから何かしてもらっても、誰かに八つ当たりしてもいいなどという自己欺瞞はひとりでやればいい。
私にとって自己欺瞞とは、やったら死ぬときに後悔することなのだと思う。やるならひとりで、誰の手も借りずにやることにする。
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アイメッセージのみ可。ユーメッセージ不要。言いっぱなし、聴きっぱなしのコメント欄です。返米御容赦!夜露疾駆